【ハーメルンの笛吹き男】ー現代に生き続ける伝説
目次
<笛吹き男の伝説>
13世紀後半、ドイツのハーメルンという町で、ネズミが大量発生した。
ネズミは食物を食い荒らし、家の柱や家具類、いやそればかりか小さな子供までも齧り、町民たちを大層悩ませていた。
そんなある日、ハーメルンの町を一人の男が訪れた。
男は色とりどりの布で出来た奇妙な服を身に着け、一本の笛を携えていた。
男は町長の家の門に立つと、こう申し出た。
「ネズミの害で大層お困りだと聞きました。私は笛の音でネズミを意のままに動かすことができます。報酬を頂けるのであれば、私がネズミを一匹残らず退治して差し上げますが、いかがでしょう?」
町長は男の提案に一も二もなく飛びつき、本当にネズミを退治してくれたら報酬を支払う、と約束した。
男は町の広場まで行くと、笛を吹き始めた。
すると、どうだろう。ネズミがあちこちから姿を現し、男の周りに集まってくるではないか。
その様は、男が奏でる音楽にウットリと聞き惚れているようでもあるし、見えない糸によって抗いようもなく引き寄せられているようでもあった。
しばらくすると男は通りを歩き始めた。その後ろを町中から集まったネズミ達が追いかけていく。
やがて男とネズミの一団は、大きな川の辺りにやってきた。
男はそこで立ち止まったが、笛を吹くことは止めなかった。ネズミの群れはそのまま川に向かって走っていく。
そして。
川に飛び込んだネズミ達は、広い川の中程で次々と溺れ死んでいった。
こうして、男は見事にネズミ退治をやってのけた。
ところが、報酬を受け取りに来た男に向かって、町長はそんな約束はしていないと言い放った。
町長ばかりではない、その場に集まっていた町民の誰ひとりとして、報酬を払おうと言う者はいなかった。
男は人々の顔をじっと見回していたが、やがて町を出ていった。
それからしばらく経ったある日のこと。
奇妙な赤い帽子をかぶった、恐ろしい風貌の猟師がハーメルンを訪れた。
猟師は町の広場に立ち、笛を吹き始めた。
そう、あの笛吹き男だったのである。
今度はネズミではなく、子供達が集まってきた。
猟師の姿をした笛吹き男は、ひとしきり笛を鳴らし、子供達が十分集まったとみると、通りを歩き始めた。
笛吹き男と子供の一団は町から出て、どんどん丘の方に歩いて行く。
途中で一人の少年が、シャツのまま出てきてしまったことに気づき、家まで上衣を取りに戻った。
少年が一団の後を追って丘まで来た時、笛吹き男と他の子供達は丘を登っているところだった。
そうして丘の天辺まで来ると、彼らはまるで裂け目に飲まれたかのように忽然と姿を消してしまったのである。
ハーメルンの130人の子供達は、上衣を取りに戻った少年以外、誰ひとりとして戻らなかった。
<解説と考察>
私が初めてハーメルンの笛吹き男を知ったのは、子供向けの漫画ちっくなイラストが添えられた絵本でした。
道化師のような謎めいた男、笛を使ってネズミを操るという不思議な力、そして腹いせに子供を連れ去ってしまうという不気味さ。
この非常に印象的で魅力のある作品は、私のひそかなお気に入りでしたが、これが史実に基づいていると知って一層興味がそそられました。
そこでまず、記録があるという「ハーメルンの子供消失事件」を調べてみました。
◎実際に起こった!?ハーメルンの子供消失事件
ドイツ中世史に詳しい歴史学者、阿部謹也氏もハーメルンの笛吹き男の謎を追いかけ、様々な資料を調査されています。その著書「ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界」からかなり詳しい情報を得ることが出来ました。
阿部氏によると、グリム兄弟が古い伝説を集めて再録した「ドイツ伝説集」に、ハーメルンの子供消失事件について詳しい記述があるそうです。
それによれば、ハーメルンの子供消失事件は市の記録簿に書き留められており、市民は子供たちが失踪した日を起点にして年月を数えていたといいます。
例えば、新門にはこんなラテン語の文が刻まれています。
“マグス(魔王)が130人の子供を
町から攫ってから272年の後、
この門は建立された。”
◎かなり具体的!子供が失踪した日付
伝説というものは大抵、時期が曖昧なものですが、ハーメルンの子供消失事件はハッキリしています。
ハーメルンの市参事会堂には、こう刻まれています。
“キリスト生誕後の1284年に
ハーメルンの町から連れ去られた
当市生まれの130人の子供たち
笛吹き男に導かれ
コッペンで消えうせた”
この一行目は、キリスト生誕年は紀元元年とイコールか否かという議論には関係無く、素直に西暦1284年と読んで良いでしょう。
次に月日ですが、複数の古い資料に「子供たちが奪われたのはヨハネとパウロの日」であることが書かれています。これはいつかというと、殉教者である聖ヨハネと聖パウロの兄弟を記念した日で、6月26日になります。
1284年6月26日、これが事件の発生日なのです。
なお、最後の行に出てくる「コッペン」という場所が手掛かりに思えますが、残念ながら固有名詞ではなく、古ドイツ語で丘を指す言葉のようです。
◎子供の失踪とネズミ退治は無関係!?
この物語を根底から覆すような話ですが、実は、史実として伝わる笛吹き男の話には、ネズミ退治のくだりは出てきません。
これはどういうことでしょうか?
当時のヨーロッパでは、穀物を齧られたりペストを持ち込まれたりと、ネズミの害が深刻でした。そこで、各地にはネズミ駆除を生業とする「ネズミ捕り男」がいたわけですが、彼らは放浪者であったため、得体の知れない不気味な人物というイメージを持たれ、様々な「ネズミ捕り男の伝説」が生まれたのです。
こういった伝説に登場するネズミ捕り男は、笛を使ってネズミを集め、きちんと報酬が支払われないとまた笛を使ってネズミを町に戻したり、家畜や若者を連れ去ったりしています。
このネズミ捕り男の伝説がハーメルンの子供消失事件と結びつき、現在のような「ハーメルンの笛吹き男」の物語に変化したのでしょう。
◎結局、真相は……
ここまで読んで来たあなたには、とても知りたいことがひとつあると思います。
『実際には、子供たちの身に何が起こったのか?』
それは、この伝説を追いかける誰もが知りたいことです。
しかし、残念ながら、今日に至るまで解明されていません。
「1284年6月26日、ハーメルンの130人の子供たちがカルワリオ山の方向(東)へ向かい、コッペン(丘)のあたりで行方不明になった。」
これが分かっていることのすべてなのです。
日付や人数はハッキリわかっているし、大体の場所もわかるのですが、どの資料を見ても、核心である「子供たちがどんな理由でそこに赴き、何が起こって姿を消したのか」がハッキリしません。
前述の阿部氏の著書によると、130人もの子供たちが失踪した原因については世界中で研究されており、25以上もの仮説が立てられています。
その詳細をすべて書くわけにはいきませんが、どんな解釈がされているかの項目だけ引用させていただきました。
1.舞踏病
2.トランシルヴァニアへの移住
3.子供十字軍
4.1457年または1462年のノルマンディーへの聖ミカエル巡礼
5.野獣に食い殺された
6.純然たるつくり話である
7.ユダヤ教の儀式の犠牲として殺された
8.地下にある監獄に閉じ込められた
9.1285年に偽皇帝フリードリッヒ二世のあとを
ついていった
10.東門の前の試合で命を落とした
11.崖の上から水中に落ち溺れ死んだ
12.地震による山崩れで死亡
13.修道士によって修道院内に誘拐された
14.狂信的な鞭打苦行者の群れとともに消えた
15.群盗に誘拐された
16.何か分からない目的のために招集された
17.1260年のゼデミューンデの戦で戦死した
18.新兵として召集された
19.砕石見習工としてボヘミアまたはトランシルヴァニアへ送られた
20.基礎となっているのは妖精伝説である
21.古キリスト教の儀式のための殺人
22.純然たる神話的モチーフ
23.遍歴伝説がハーメルンにもたらされた
24.死の舞踏の叙述から派生したもの
25.ペストに似た疫病、多くの人の死亡
このうち、赤字のものは、阿部氏が今なお検討に値するとしている説です。この他、東ドイツ植民説も有力なようです。
しかし、これだけの解釈があっても、未だに謎は解明されていません。
それこそが「ハーメルンの笛吹き男」の最大の魅力ではないでしょうか。
◎現代に生き続ける伝説
現在のハーメルン市は、ドイツ観光街道の一つであるメルヘン街道に参加しています。伝説が街の観光産業に一役買っているようです。
上の画像の建物は「ネズミ捕り男の家」と呼ばれ、子供たちを連れ去った笛吹き男の家だと言われる事もありますが、建築はずっと後の1600年代で、史実の笛吹き男とは無関係。現在、内部はレストランになっています。
この家の向かって右側にある小道は「ブンゲローゼン(舞楽禁制)通り」と呼ばれ、笛吹き男と子供たちが南側の広場からこの小道を通ってオスター通りに出た後、東門をくぐって町を出て行ったと言われています。
ブンゲローゼン通りでは、今でも音楽が禁じられており、結婚式の行列ですら、この小道では静かに通るということです。
この町では、今でも伝説が生き続けているのです。
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参考文献
「ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界」(阿部謹也/ちくま文庫)
初出:2017年2月22日
再掲:2020年9月22日